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元旦に祈ること
  千年に一度の巨大地震と巨大津波に見舞われた災厄の年が明けました。未だに3400人以上の尊い命が不明のままであり、決して「明けましておめでとう」とは心から言えない心境の元旦の朝です。今朝の松本は、曇り空の天候であるため、残念なことに、白銀に輝く北アルプスを臨むことはできませんでした。
信州の昆虫食を考えた1日
久しぶりに心が明るくなった1日
  10月に入り、気温がめっきり下がってきました。あの真夏の猛暑は一体どこへ行ったのでしょうか。野原では、コスモスの可憐な美しい花が咲き誇り、ススキの穂が秋の気配をいっそう濃くしています。黄金色に輝いていた郊外の田んぼでは、稲刈りも無事に終わりました。今年は、3月の福島第1原発の事故による放射性物質の放出で、農作物にも多大な悪影響があり、風評被害も加わって、農家の方々はたいへんな苦境に追いやられています。1日も早く、こうした不幸な事態が解消され、以前のように安心して農業に従事できる状況を政治の力で是非とも取り戻してほしいものです。
台風の恐ろしさを考えた1日
  猛暑だった8月も終わり、アオマツムシやエンマコウロギが騒々しく鳴く季節の到来です。ようやく夜はぐっすり寝られる温度になったようです。8月4日に狭山市内で偶然にも採集したアカホシゴマダラチョウの子供が成虫にまで育ちました。実は、採集後、リシャール式採卵法でそのチョウから13個の卵を得ました。エサとなるエノキの葉を毎日与え、成虫まで育てることができたのです。しかし、このチョウは、昔、奄美大島にしか分布していなかった種類です。そのチョウを狭山市内で採集し、それから得た子供を狭山市で飼育できるなんて通常は考えられないことでした。地球の温暖化は急速に襲ってきています。これを裏付ける自然災害が多く発生していることは本当に恐ろしいことです。
狭山市で地球温暖化の影響をみた日
  子供たちも夏休みになり、海や山は家族連れで賑わってきました。しかし、今年は福島第1原発の事故による放射能漏れで、海を敬遠して野山に出かける家族が多いと、先日、報道されていました。さて、僕たちが子供の頃は、夏休みになると、昆虫採集のネットをかついで、近くの山によく出かけたものでした。当時の宿題に身近な昆虫の標本をつくってくることがあったからです。7月下旬から8月上旬のクヌギ林にいくと、カブトムシやコクワガタ、運が良ければ、オオクワガタやミヤマクワガタ、ノコギリクワガタなどが採集できたものでした。実は、僕はこうした甲虫類よりも、チョウ類に関心が強く、オオムラサキやスミナガシ、コムラサキ、クジャクチョウ、種々のゼフィルスなどを夢中になって追いかけていました。僕が育った信州の松本市は、日本でチョウの種類が一番棲息し、家から自転車で15分のところにある藤井谷では、僕の採集記録によると、126種類も観察できました。僕は本当にラッキーな場所に住んでいたと思います。
嬉しいこと悲しいことが交錯した日
  7月も早下旬に入りました。先日は、台風6号が西日本に大きな被害を残して太平洋に去っていきました。この時期の大型台風の発生と本土への接近は本当に珍しいことであり、昔ではとても考えられないことです。地球規模で大気の状態が不安定になり、気圧配置も大きく変わってきているようです。心配はつのるばかりです。
心配だったヒナツバメが巣立ちました
  3月の大震災から約100日が過ぎようとしています。あの巨大地震と巨大津波で、瞬く間に多くの尊い人命と貴重な家屋や財産が失われました。ぼくの心は、まだ悲しみから抜け出せない状況にあります。こうした環境に陥った中で、フィリッピンなど南国から被災地の東北地方にはるばる渡ってきたツバメ達は、いったいどこで結婚し、子育てをしたのでしょうか。ツバメは前年度に巣作りしたと同じ場所に戻ってくるので、ツバメが巣作りする家や生活環境がすべて失われたことは、ツバメにとって想像を絶するほどの悲しみであったと思います。このことも、ぼくにとって心を痛めることなのです。
放射能の心配ばかりが続く
  東日本大震災から約2ケ月半以上が過ぎました。巨大地震と巨大津波に加え、福島第1原発事故による放射能漏れと、不幸なことが続いています。特に、原発事故では、福島や茨城に在住の多くの人々を恐怖に追いやり、避難を余儀なくされています。本当に悲しいことです。高濃度の放射性物質による海洋汚染や農地の汚染は深刻になってきました。特に、海洋汚染では、海に棲む生き物に放射性物質が取り込まれ、生物の食物連鎖によって次第に濃縮されてきます。プランクトンから小魚へ、小魚から大型魚へと生物濃縮され、やがてはそれらを食する人間にも入ってくるという危険が潜んでいます。この危険性がどのくらいの期間にわたって続くのかは、原発事故が収束してからでないと答えは出てくるものではありません。1日も早い原発事故の終幕を祈るばかりです。
「絶望から希望へ」を思う1日
  この1ケ月間、僕の頭は悲しみのあまりどうも機能していなかったようです。でも、嬉しいことに、あの恐ろしい東日本大震災から50日が過ぎて5月を迎え、日本は復旧、復興へと着実に動き始めました。およそ66年前、第二次世界大戦の破滅から立ち直ったときと同じように、日本人のしなやかな強さが息を吹き返した感じがするのです。特に、東北の人々は、宮澤賢治が残した「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ、丈夫ナカラダヲモチ」 にあるように、質実剛健で、献身的な底力を持ち合わせいるので、この国難を必ずや再興してくれるのではないでしょうか。
国民が経験したことのない大震災を悲しむ
  3月11日午後2時46分頃、大学の研究室にいたぼくは、大きな揺れを伴う地震を感じ、しばらく呆然としていました。これはとてつもない大きな地震だ、とすぐに思った理由は、ぼくが昔通っていた中学校の校舎が新潟地震で大きく傾き、新潟を中心に東北地方で大災害が生じたときと同じくらいの揺れであったからです。研究室の棚から本や書類が落下したり、実験室の薬品棚が転倒したりの状態でした。ラジオに耳を傾けると、マグニチュード8.8(後日、これは9.0と修正されました)の巨大地震が三陸沖を震源に発生したことが報じられていました。そして、次に東北地方の東海岸には大津波警報が発せられていました。



